私が生きていくことと、文豪ストレイドッグスについて

文豪ストレイドッグスのファンを続けて2年半が過ぎようとしている。

ファンと言っても、形はいろいろある。キャラ愛を貫く人、ストーリーを追い続ける人、絵を楽しむ人、二次創作をする人……。キャラ愛も貫き、二次創作もする人もいる。明確なカテゴリ分けがあるわけじゃない。ファンの形は、ファンの数ほどいる。そんな私は、考察を中心として楽しむファンだ。勿論二次創作もする。

 

文ストの話を……本当に話そうとすると、頭の中にあるものすべてを出そうとすると、5時間以上話し込む。というか、本当にしたことがあって、去年の今頃にはフォロワーさんとカフェでそのくらい話し合った。すごかった。頭が宇宙に行くかと思った。

 

勿論映画も見ました。1日で2回も見てしまった。素晴らしかった。

映画の考察をしようとすると、とっても話が長くなるうえに、まだうまく消化できていない部分もあるので、今回はやめます。また今度。

 

で、どうして今回筆を執ったのかと言うと、文豪ストレイドッグスのテーマである「生きていくこと」と、私の人生について、少し重なって見えたな、学ぶものがあったな、と思ったからでした。

 

私が生きていくことと、文豪ストレイドッグスについて

 

今日、数年ぶりに母校の高校に顔を見せに行きました。高校卒業後、一度も顔を出したことがなかったのですが。就職が決まり、やはりあいさつしなくちゃならないだろう、と思って。あと、自分の過去にケリをつけたくて。

 

 少し自分の話をします。

 私をよく知る方々も多いかもしれませんが。

 

私は、高校3年生の時、学校に3分の1以上通わなかった。所謂不登校っていうやつ。

原因は、勉強についていけなかったから。

周囲との学力の差に愕然として、授業も面白く感じられなくて、酷い「劣等感」に苛まれた。さらに、自分がかねてから抱いていた、「〇〇大にいって、あの研究をして、この職に就くんだ!」という夢があったけど、当時、今の学力じゃ志望大学に行けないことを悟った時に、私の高校生活は意味のないものに転化してしまった。

 

そして、当時の先生からの罵倒も酷かった。これが私が不登校になったトドメになった。

英語の教師から、「お前は中学生からやりなおしてこい」と授業中、みんなの前で言われた。

古典の教師から、「お前はクラスの空気を乱している」と授業中、みんなの前で言われた。

自分は遅れているから、もちろん勉強を頑張っているつもりだった。でも、頑張りは実を結ばず、教室に私の居場所もなく、授業中涙をこらえるのも、もう限界だったので、不登校になった。(悲しいことに、当該教師は私が不登校になった直接的原因であることを、自覚していない)

 

「自分はどうしようもない人間なんだ」「人より遅れている」、という「劣等感」が私の周りに常に付きまとっていた。今もそうだ。

 

その先生たちの顔を今も覚えている。就職決まったら、絶対に復讐してやると思った。

にこにこの笑顔で「あの時あなたの言葉がきっかけで不登校になりましたが、今は元気に過ごしております。」と、職員室みんながいる中で、言ってやろうと思った。言う権利が私にはあった。言えば、過去にケリがつけられて、晴れて私は自身に満ち溢れていた自分を取り戻せると思った。

 

今日、就職が決まったことを報告しに、母校へ行った。

結論から言うと、そんな暴言は言っていない。当該教師に会ってすらいない。離任されていたからだ。

当時、献身的に家庭訪問してくださっていた担任の先生と、保健室登校でお世話になった先生と、部活の顧問の3人だけ挨拶して帰った。何気ない会話と、「本当にご迷惑おかけしました、先生のおかげで無事、元気でやっております」と言って帰った。この3人の先生方は本当にお世話になった先生方だったので、私の復讐の対象外だった。むしろ感謝しかない。

 

不登校だった悲しい過去にケリがつけられたか? と言われると、正直分からない。

そもそも、ケリつけられるものなのかも、分からない。私の「劣等感」という心の傷は多分この先ずっと残っていくだろうし、一度「自分は生きていても仕方がない人間だ」と自分自身を見捨てた過去は、この先も大きな壁となって、何かあるたびに簡単に自分を見捨てそうな気がする。自己肯定感はあるけれど、自分に対する安心感はない。

 

たかが、いっときの不登校くらいで、って思う人もいるかもしれない。でも、私はそうではない。不登校になったせいで、自分に自信がなくなった。自分に自信がないと、気概がなくなる。いやなことから全部逃げ出したくなる。(所謂逃げ癖)そしたら朝が辛くなる。ずっと何も考えず、ベッドで寝起きしていたくなる。

不登校の時についた逃げ癖は今でも治らない。それまで果敢に何でも挑戦してきた自分だったけど、すっかり生き方が変わってしまった。

 

不登校のことを鮮明に思い出そうとすると今でも必ず泣いてしまう。もうすでにこのブログを書いて、一回泣いた。もう数年前のことなのに。表面上は「私不登校経験があるんすよね~~www」とは言えるけど、深くは話せない。「高校三年の時、勉強が分からなくなった絶望と、教師からの自己否定を受けて不登校に……え?教師から何を言われたかも言わないといけないの?ええっとまいったな……」とそんな感じで後は歯を食いしばらないと話せない。

 

人は自分を誇示して生きていく。いいかっこして生きていく。「自分謙虚なんで……」というけれども、意識下でも無意識下でも、絶対に自分の力をどこかで見せびらかして生きている。それは、生物的に当たり前のものである。自分を強く見せないと、他者から食われるからである。だから人は着飾るし、見栄を張ったりする。いきったりする。そうしないと生きていけないから。

私は安心して生きていくために、「不登校」によって人一倍に膨らんだ「劣等感」を捨てたい。排したい。自分を信頼したい。でも難しい。

 

正直に話すと、私は当該教師をそこまで憎んでいない。「絶対に復讐してやる!」とイキって、エネルギーに変えようとしただけで、心の底では、多分、そこまで振り切れていないと思う。暴言を吐いて復讐をしたとしても、あとあと「なんであんなこと言っちゃったんだろう」と後悔するに決まってる。私が不登校になったのは、そういう運命の下だったからであって、別に当該教師だけのせいではないんだと思う。当時はひどく傷ついたけど、社会と言うものはきっとそういうもんで、悲しい出来事も、悔しい出来事も、結局は自分が何とかしなければならないんだと思う。

 

自分が不幸になって、「劣等感」に苛まれて「逃げ癖」がついて、生き方が変わってしまったのを、誰かのせいにすれば楽だけど、楽なだけで、前に進めるわけではない。私の人生がこうなったのを、ずっと誰かのせいにして、悪態ついて生きていきたくはない。だって結局何も変わらないから。人のことを悪く言ったからと言って、その人が改心して私の人生をより良くできるとは思わない、だって私の人生を一度めちゃくちゃにしてくれた人が、再び私の人生をどうにか良くできると思う?????????

 

私の人生は私だけのものであり、悲しい過去も、苦しい思い出も、「逃げ癖」によって生き方が変わってしまったのも、私だけに課せられた課題だと思う。「過去にケリをつけたい」……そう思って大学進学したりして数年間生きてきたけど、一度味わったものは、切り捨てようとも切り捨てられない。

 

文豪ストレイドッグスの映画を見た。素晴らしい映画だった。もう一度、文豪ストレイドッグスを味わってみた。

出てくる登場人物、いろんな過去があると思う。でも、過去と決別つけて乗り越えて生きている人は、いないと思う。

過去とケリをつけたい、そう思ってここ数年間生きてきたけれど、もう一度文ストを味わってみると、「別に、過去にケリをつけなくてもいいのかもしれないなあ」と思えるようになった。

よく、「悲しみを乗り越える」と言うけれど、じゃあ一体、どの状態が悲しみを乗り越えたと言えるんだろうか?果たして悲しみを乗り越えることって、できるものなのだろうか。バラエティ番組とかで、苦労した芸能人の重たい過去話を特集しているとき、やっぱりどの芸能人も最後には辛くて涙を流す。あれって、過去を乗り越えている状態なんだろうか。

 

文ストの映画を見て、「悲しみは乗り越えるものではなくて、自分のものとして同化するものじゃないかなあ」とぼんやり思った。

悲しみを自分の一部としてとらえ、もう一度自分を捉えなおす。必要なのは、自己の修復ではなく、再構築することにあると思う。

悲しい過去を乗り越えて昔の本来の自分を取り戻すのではなく、悲しい過去を取り込んで自分の経験値として新しい自分を生み出していく。

具体的に言うと、「逃げ癖」を治すのではなく、「逃げ上手」になる。みたいな。

「劣等感」を治すのではなく、「底辺にしか見えないものを楽しむ」。みたいな。

 

生きていくことは辛い。きつい。誰だってそうだと思う。

自分の切っても切り離せない自分を認めるのもきつい。

だからこそ、私は文豪ストレイドッグスを読むし、生きていくことの尊さをしみじみと考えるのだ。

多分、その、うまく言えないけど。私が文ストが好きなのは、ひたすら愚直に、悩んでも悩んでも生きようとすることを諦めない皆に出会いたいから、そういうところにあると思う。

「試されるのは、その生きる価値」(アニメ版キャッチコピー)

とは、うまく表したものだ。このキャッチを考えた人に、拍手を送りたい。

 

私は生きていきたい。死にたいとは思わない。現状から逃げたいから死にたいとは思うときがあるけれど、本当に死にたいとは、今は思っていない。

私がこれから先、過去を振り切れず悩みながらも生きていくことは、きっと尊いことであるだろうし、いろんな人と出会ったりいろんな人から傷つけられたり傷つけたりするかもしれないだろうが、私はそれでもいろんな人と生きていきたい。もちろん、私を傷つけた当該教師たちも、私の人生において、かけがえのない存在である。失いたくはない、排したくはない。誰かの人生を傷つける権利は私にはないし、彼らも、私の人生をめちゃくちゃにしたくって罵倒したはずではないと考える。私がその時既に勉強で疲れていて、その時たまたま浴びせられた言葉が、悪いタイミングだっただけで。当該教師が私の傷つきやすい精神状態を理解できなかったと同じように、私も当該教師の総てを知る人間ではない。無理解こそが一番の敵である。私は、復讐がしたいわけじゃない。どんな人とでも、一緒に生きていける力が欲しい。

私は私を試したいし、私の生きる価値を見出したい。

 

いろいろあったけど、今は元気に過ごしております。

文豪ストレイドッグス50話について感想

※※※文スト最新話ネタバレ注意。

 

 風邪をひきました。つらい。鹿児島にプチ旅行中、人混みに長いこといたせいでウィルスもらったらしい。あと鹿児島超雨だったから……☂️つらい、雨なのは長崎だけでいいよ……

 

 ということで、ベッドの中で一日中ゴロゴロしていました。やることない。いや、やりたいことはあるが、体力がない。全身だるくてきっっつい。

 ならば指先だけでやれる、ブログ更新をしよう、と思い立ちました。久々の文スト考察やってみよう! うわーい!君は考察が大好きなフレンズなんだね

 なお、私のスマホiPhoneなので全角スペースという概念がない上に、スマホ入力はパソコン入力ほど得意ではないので、文章がいつもに増してめちゃくちゃだったりすることはご愛嬌ということで許して欲しいです。誤字も脱字も得意なフレンズだからね。ガル闇セツクマウス。

 

 本題にはいろう。

 

 

文豪ストレイドッグス50話がやばかった。

 

それだけ。今回はそれだけを伝えたい。もう今すぐ読んできてくれ。今月のヤングエースは買え。買えば世界が広がって見える。視野が広くなる。すごい。もはや医療。あとシャブ。キメたあとの興奮がすごかった。思い出すだけでもテンション上がりそう。うわっ熱上がるやんこわ。ていうかまあ、あれじゃん???黒の時代読んだら胸熱な展開だよ。まあ読んでなくとも胸熱。だってねえ……もうほんと読んでくれよな!!!!読んでないなら今すぐこのブログを閉じて本屋で買うかコンビニでネットマネー買って電子書籍買ってきて欲しい。雑誌は重いから買わないという声があるけど、電子書籍はいいぞと、強く訴えたい。私はいつも雑誌は電子書籍でキメてる。現物は重いからね!付録はつかないけど、処理に困らないデータという魅力の方がでかかった。電子書籍、私はe-booksさんで買ってる。雑誌とエロ商業BLはすべての電子書籍や。電子書籍お勧めや。地方民にとって、本の発売日遅れは最大の敵なんだが、電子書籍だとその辺のタイムラグはないし、地元が田舎すぎて本屋ないところでも、電子書籍ならマイナーな本だって取り扱ってくれる。なにより持ち運びできる。今月のヤングエース何度もサクサクと読み返せる。すごい。そう、今月のヤングエースはとにかくすごかったんだ。(ここサビ

もう言っちゃおう。

ネタバレしちゃおう。

雑誌読んでない人はみんな帰ってください。なんならネットマネーあげるよ。

 クジラの子らは砂上に歌うも読んでね。

 

 

ほないくで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

!!!!!

 

 

やった!!!!夏目漱石だ!!!!!みんな大好き夏目漱石!!!!!!文ストにも満を辞して夏目漱石!!!!!!やったあ!!!!黒の時代ではCV大塚芳忠の同人ステマおじさんみたいな扱いされてたけど、ちゃんとでたよ!!!!!

すごい!!!!!人の体してる!!!!!夏目漱石人の体してるの!!!!!!!はええ!!!!すごい!!!アシメおじさんだ!!!!!アシメ!!!!!あと結構すごい萌えの波動を感じる。お前も可愛いおじさん枠を狙ってんのかーーーーーーッッッッ!!!!!!

 

ということで、夏目漱石が出たよ。

 私は今月号読んで感動したんや。なんでかっていうと、夏目漱石がはやく文スト本編に出てくれねえかなあって黒の時代読んだ時から思ってたからだよ。織田作の師匠筋みたいなものだからね。

 黒の時代で描かれた、織田作を導いた存在。このスタートが文スト本編でとにかく重要なのは言うまでもない。織田作が善に目覚め、太宰を諭し、その太宰は敦を激励し、その敦は鏡花を光の道へ引っ張ったり。織田作から始まったこの救済の遺伝子は各キャラに一子相伝のごとく大切に受け継がれた、実に美しい時代のうねりなのだ。私はこれを「救済の系譜」と勝手に呼んでいる。

 その救済の系譜を作ったのが夏目漱石だ。

 夏目漱石をはやく見たい。ビジュアル解禁されてほしい。と思ってたので今月のYA、大満足でした。

 そいで、今月号の流れを見てると、織田作の死は壮大な計画殺人なのかもしれないな、と思った。織田作の死ですら、この舞台、「魔都・横浜」を機能させるための小さな犠牲だったというか。

 我々からすると、実に悲劇的に長い時間をかけて死んで行ったように見えた織田作なのだが、この救済の系譜を作り上げた夏目漱石からすれば、それすらも計画だった、というか。なんというか。そんな感じに感じる。

 

 織田作、壮大な計画殺人で殺された説を提唱したい

 

 ちょっとだけ夏目漱石のいる文ストの世界を考察したいなあと思う。まあ考察っていうか、だらだら感想になるんだけど。

 

 まずは夏目漱石の情報を洗おうと思う。

・探偵社に異能開業許可証を与えた

・職業殺人者の織田作之助に転向を促した

・横浜の地すべてを知るといわれている

 

 という前情報に加え

 

・「三刻構想」という社会システムで戦後混乱期の横浜の均衡を保とうとした

森鴎外を見込んで街を任せていた

夏目漱石の異能は「吾輩は猫である

 

 という情報が新たに加わったといえる。

 

 ここから見えることは、夏目漱石は「探偵社」にも「ポートマフィア」にも相当肩入れしているということである。いや個人的にね? 夏目漱石って織田作をいい方向に導いてる感じしたじゃん??? だから悪であるポートマフィアと対立してるのかな? って思ってたわけなんですよ。事実は違いましたね。悪も善も法秩序も何もかも使って、横浜という街を再構築しようとしてたんですね。ていうかそもそも夏目漱石「人殺しはやめろ」って言ってないですからね。うわあ、怖い。夏目漱石怖いな。

 あと、夏目漱石って「世の中を善で溢れ返させる」っていう目的でもあるのかな?って思ってたんです。でも森鴎外に街を任せている時点で、善で溢れ返させるって感じじゃなかったですね。正義のヒーローを作ろうとしてるわけじゃないですね、これ。

 

 じゃあ織田作の死ってなんだったんだ?って思うんだけど。

 序盤でちらっと言ったけど、「夏目漱石が描く社会を作るための小さな犠牲」だったんだよなあ。別に夏目漱石は善意で織田作を救おうとしたわけじゃない説をここに提唱したいよ。

 織田作と夏目が出会ったのは14歳のころだったから、夏目漱石はそのころから織田作の能力を買っていて、あのころから織田作は「夏目漱石にポートマフィアに異能開業許可証を手に入れさせる、そして救いの系譜を描かせる道具」として見張られていたのではないかなあって思ってる。

(そもそもどうして救いの系譜を描こうとしてるのか、という疑問も残るけれど、これはおそらく、太宰を救うため?なのかなとも思っている。)

 夏目漱石はどうやら「猫に変身できる」能力を持ってるんですが、アニメ黒の時代でこれみよがしに猫の演出を多く取り入れたのは「実はあれは夏目先生だった」と考えるとちょっとしたホラーですよね。敦と一緒の動物に変身できる異能だね!すごーい!

 まあ漫画本編どころか小説にも猫あまり出てないので後付け設定な気もしないんですが。

 織田作は、ミミックがどうとかの小さな争いで自ら望んで死ににいったわけではなくて、ポートマフィアに開業許可証を手に入れさせるための道具として、さらに太宰を救わせる道具として、12年前、夏目漱石に出会ってしまった時から彼の「死」は決定していたんだと思う。

 

 

 Vは今後どう絡んでくるのか

 

 以下雑感。

 夏目漱石といえばVといいたい。小説3巻を読んだ人ならご存じ、「異能者を消すことをもくろんでいる組織」のことだ。そもそも夏目漱石はこのVから逃げているのだ。なぜ追われているのかは知らないが、夏目漱石が「なんでもわかる存在」だからなのではないかと推測する。何でもわかる存在、多すぎやしないか、文スト。まあ、異能名が人間観察が好きな猫が主人公の「吾輩は猫である」な時点で、なんとなく夏目漱石物知りな感じはする。fateで言えば千里眼スキル。未来を見渡す千里眼。ちなみに過去を見渡せる千里眼もちが乱歩で、現在を見渡せるのが太宰っぽい。

 異能者を消すことを望んでいるといえば、ドストエフスキーもそうだ。ということで、ドストエフスキー、Vと関わりある説を推したい。

 Vって何かのイニシャルなのだろうかって思ってるけど、文ストに出てきた名前では、Vがつく作家といえば、ヴィクトル・ユーゴーしか思いつかない。レ・ミゼラブルヴィクトル・ユーゴーです。フランス作家の。文ストに出てきたフランス作家はアンドレ・ジッドしか出てきてないから、あまりうまいことは言えないけど、Vがヴィクトル・ユーゴー説は無いなって思います。

 最終的な文ストの話は、Vにたどり着くのかなとも思ったり。本のことも解決してないけど。

 

うーん、難しくなってきた。

 

アニメ「黒の時代」は何を描きたかったのか ―演出とセリフから考察するもう一つの「黒の時代」―

 昨夜、黒の時代16話を見た。どうやら私は相当に黒の時代が好きらしい。見終わった瞬間、「どうにかしてこの素晴らしさを誰かに伝えたい」「私が感じたアニメの素晴らしいところを誰かに聞いてほしい」という感情が爆発した。

 ツイッターの版権アカウントでは翌日の上映会の人々のために「何も話さない、まっさらな状態で見てほしい」という気持ちから、ツイートを控えていたのだが、「ストクラ少ないからヘーキヘーキ」と思い、私の本アカウントのほうでは暴れてしまった。「あああああ」とか「黒の時代サイコーーー!!」等といった、断末魔にも似た歓喜の雄たけびを呟いていた。さらに、フォロワーさんのいちまろさんに、自分でも信じられないと思うほどの量のDMを送ってしまっていた。夜も更けていたのに、申し訳なかった、付き合ってくださってありがとうございます。

 今夜は上映会である。私はどうしても行けなかったのだが、代わりに皆がシアターで黒の時代を見ている時間に、アニメ「黒の時代」の考察をまとめたいと思う。現在の時間は8時45分、時間との勝負である。どうにかして上映会直後には公開できるようにしたい。(そのために文章がめちゃくちゃになるかもしれないが、ご愛敬でお願いいたします)

 

アニメ「黒の時代」は何を描きたかったのか

 アニメ「黒の時代」は、ほぼほぼ小説と同じ話を展開しているが、若干小説版との相違が見られる。また、一期に比べ、かなり演出にこだわったと思われるほど、印象的なシーンがいくつもあった。織田作の瞳の色、ジイドの瞳の色、伸ばした手が届かない対比……4話すべて、あますことなく無駄のないシーンばかりだったと思われる。13話から16話まで、私が気になったシーンから考えを述べ、まとめとして、アニメ「黒の時代」が小説「黒の時代」を継承し、何を描きたかったのかについて私なりに考察していく。

 

①届かない手

 13話では路地裏で「太宰!」と叫びながら織田作の手が届かず、16話では店前で「織田作!」と叫びながら太宰の手が届かない。このシーンのアップの演出が同じなのはいろんな人が気が付いたと思われる。ここで分かるのは、「どちらかが手をきちんと差し伸べていれば、結末が変わったのではないか」ということである。少なくとも死別などという友情の終わり方はしなかっただろう。織田作が太宰の心の闇を無理やり白日の下に晒していれば、太宰は織田作が死ぬ前に「いい人」になろうと努力していただろうし、太宰の手が届いていれば織田作は死地へ向かうことはなかった。

 しかし、彼らは無理に引き留めることはしなかった。伸ばした手を届くまで、追いかけることはしなかった。「追いかけるほどでもない間柄の友情」ではなく「お互い相手を心配しているが、踏み込めないという切ない友情」を描いているのだと思う。踏み込んでしまえば、相手との関係を逆に壊してしまうのではないか――自分には相手の世界に踏み込めるほどの権利は持っていないのではないか……そのような心理がありありと目に浮かび、非常にもどかしい。(というか小説版ではまさに織田作がP88でそのようなことを言っている。マフィアの特質なのかもしれない)

 

②ジイドと織田作の瞳

 ジイドは小説版では灰色の目で、織田作はとび色(茶色)をしている。しかし、アニメ版ではジイドは赤い目、織田作は青い目になっている。ズバリ言うと、これは敦と芥川のように「色ではっきりと対比」させるためだと思っている。敦と芥川がどっちかどっちだったか分からないが、青と赤で対比させていたような気がする。(全然違ったらごめん)

 さらに言うと、漫画のほうでも「キャラデザは横に並んだ時にそれぞれ映えるように設定してある」と作者も言っていたので、ジイドも織田作も並べば映えるようなキャラデザに改変したのかもしれない。

 

③瞳のハイライト

 文ストを真に楽しむうえで欠かせないのが「瞳のハイライト」である。リトマス紙のようにそのキャラのカルマ値を教えてくれる便利な演出である。黒いシーンほど、ハイライトが消えるので、「このセリフにはそのキャラの闇が含まれています」ということが分かる。太宰が何度も瞳からハイライトが消えるのが印象的だったのだが、織田作の前でハイライトが消える瞬間は路地裏、カレー屋くらいしかなかったように思う。さらに言うと、その瞬間の織田作の顔にも注目してほしい。半ば諦めたような、あきれたような、悲しそうな、複雑そうな顔をしている。このシーンの小説版に織田作の心情がすべて書かれているので、読んでほしい。

 特に13話路地裏のシーンはすごくよかった。瞳にハイライトのない太宰のことを心配しつつも、何もできてない自分に苛立っているような声色は最高である。

 

 ……私は、瞳のハイライトの件でどうしても言いたいことがある。

 黒の時代についての私の考えを根底からひっくり返してしまうことだ。

 

 16話のジイドのことだ。気付いた人も多いと思うが、15話では瞳にハイライトがほぼなかったジイドが、16話では生き生きとしたように輝いている。そして、織田作の瞳にも、ハイライトはある。

 私は小説を読んで織田作とジイドの最後のシーンは死んだ目で、死んだように、殺しあっていたのだと思った。しかしアニメでは違った。最後まで瞳から輝きは失われず、生きて目をしていた。

 私は違和感しかなかった。小説版では「生存の階段から降りた目」とも称されていた。しかし、アニメではハイライトを徹底的に入れ続けた意図はなんだろう。何か理由があるはずだと思い、ひとつの仮説を立てることにした。

 アニメ黒の時代では「二人は自分の人生の最期、絶望しながら死んでいったのではない」ということを伝えたかったのではないだろうか。望みは潰えたが、死にに行くために殺しあったが、最期まで「生きる」ことを放棄していなかった。だから一瞬も手を抜かず、撃ち合いをした。

 この仮説が正しいのであれば、ジイドは自分たちのことを亡霊といったが、織田作が殺したのは「生きたジイド」である。ジイドは、最期は「生きた人間」として死ぬことができた。小説では感じられなかった救いを、アニメでは描きたかったのではないだろうか、と思う。

 だからこそ、(私個人の意見として)一見ちょっと合ってないように思われる劇中で流れるOPが生きてくるのかもしれない。

 さらにこの仮説を裏付けるかのようなセリフがある。フォロワーさんとの会話で分かったことなのだが、アニメの織田作は、子どもたちに「仇をとってくる」とは言っていないのだ。「行ってくる」という言葉に改変されていた。つまり、アニメの織田作も、「仇を取る」のではなく、「自分の人生を最期まで生きるために、あの男と決着を付けに行く」ということを子どもたちに伝えたかったのかもしれない。だからこそ、織田作も最期まで瞳から輝きは失われずいれたのかもしれない。

 なにより、ジイドの死ぬ瞬間の、死に顔が美しかった。それだけで泣きそうになった。

 そういう意味では、アニメ黒の時代は「救いを描きたかった」のかもしれない。

 

④「友達だからな」

 織田作の今際の際のセリフが名シーンなのは言うまでもないのだが、アニメでは「分かるさ……誰よりも分かる」に追加して「俺はお前の友達だからな」がアニメオリジナルとしてセリフが追加されている。もちろんこのセリフは原作にはない。

 このセリフから分かることは、黒の時代は「友情」に焦点を当てたものだということだ。

 ちなみに15話の芥川の「太宰の友人とはまことか」という問いに対し、「その手の言葉は軽々しく口にしない主義だ」と言っている。しかし、原作ではそう問われる前に自ら「太宰の友人だ」と紹介している。

 この改変から、アニメの織田作は徹底して「太宰との距離の取り方を考えあぐねている」ということが分かる。恐らく織田作は、どうしたらいいか分からないそんな自分に相当苛立っていたと思う。怒りを押さえたような、13話路地裏の「やめろ太宰」でそれが分かる。

 しかし、死の際にやっと織田作は太宰のことを「友達だからな」と言えることができた。その時の表情はかすかに笑っていた。

 だからこそ「人は自分を救済するために生きている、死ぬ間際にそれが分かるだろう……その通りだ」と言いながら逝ったのもこことリンクしているように思える。最期に自分の友人のことを声に出して「友達だ」と言えたことに満足していたのかもしれない。そしてそんな友人を良い方向に導けた事にも。

 

 13話では織田作の手が届かず、16話では太宰の手が届かなかった。それはお互いどこまで踏み込んでいいのか分からず、おびえていたからだ。自分は相手のことを友達だと思ってるけど、相手は自分のことを果たして本当に友達だと思ってくれているのだろうか……と。

 太宰は森先生に笑顔で穏やかそうに「友達だからです」と伝えている。

 織田作は失神した芥川に「友のためにも」と言っている。

 だけどお互い、それを知らない。

 そんな「両片思い」が「両想いに」なる瞬間が、あのシーンなのだ。

 

 アニメ「黒の時代」は友情に焦点を当てた物語と言える。

 

⑤コートが脱げ、包帯がとれていくシーン

 太宰の黒コートはマフィア時代を象徴するシンボルだ。そして目の包帯も、同じような比喩が隠されている。

 そのシンボルが織田作のところへ駆け寄り、織田作の言葉を聞き、剥ぎ取られていくシーンは「マフィアを抜ける」ことを強く印象付けさせる。

 そしてマフィアを抜けた太宰は種田に「人を救う仕事ができますか?」と問う。このセリフ、今までに聞いたことのないくらい優しい声をしてる。爽やかで、穏やかで、希望に満ち溢れた太宰の声だ。このセリフにもいろんな意図が込められているのかもしれない。

 

⑥劇中歌のソプラノ

 おそらく……こんなことを言うのは私しかいないのかもしれないが、ジイドと織田作の戦いのときに流れていたソプラノ、非常に感動した。というのも、あのソプラノ歌手は笠原 由里さん(現在は新南田ゆりさん)という方なのだが、天元突破グレンラガンでも劇中歌で歌われていた方なのだ。私はグレンラガンの大ファンで、あの方のソプラノを中学生のころから聞いていて、聞きなれた歌声がまた文ストで聞けるとは!!!という感動がひとしおだ。

 ちなみに、グレンラガンで流れていたあの方のオペラのタイトルは「libera me from hell」一度聞いてほしい。ラップとオペラとかいう合わせ技が聞けるぞ。ラップもオペラもぜんぶ外国語だったのだが、和訳するときちんとグレンラガン世界に合ったものになっていた。ということは、あのオペラは和訳すると、ジイドと織田作の歌詞になっているのでは、と推測する。私は偏差値が5しかないので、全然和訳できないので、だれかリスニングに自信のある方、お願いします……。

 

 

 

 

 

 以上、述べさせていただいた。

 時間が足りないので、後で追記もすると思うし、簡潔にまとめさせていただくが、アニメ「黒の時代」では「救い」と「友情」を強く描きたかったのではないか、というまとめにさせていただく。

 小説版「黒の時代」は救いの要素が薄かった。しかし、アニメではその「救い」を演出によって感じられるようにし、もとからあった友情要素をさらに色濃く出した演出が多く入れられていた。

 アニメの制作側が何を狙いにして制作しているのかは恐らくアニメの解説本なんかでいつかは語られることだろうと思うので楽しみにしたい。

やるだけやりたい黒の時代考① バッドエンドかハッピーエンドか

 ツイッターで簡単なアンケートを取った。黒の時代を読んだ方々に向けての「黒の時代はバッドエンドかハッピーエンドか」というものだ。(メリーバッドエンドやらの項目も載せようと迷ったのだが、メリバという概念がまだ共通理解がないことと、評価をグラデーションにしてしまうと黒の時代への認識が甘く、有耶無耶な考察になってしまうと考えたため、二元論的なアンケートにさせていただいた。)お遊び感覚だったのだが、結果はとても興味深かった。3日間という短い間に設定したのだが、800票を超える結果になって、大変大変嬉しかった。投票していただいた方、本当にありがとうございました。

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 最終結果はこんな感じだ。ハッピーエンド43%、バッドエンドが57%、と大きく票はわれはしなかった。バッドエンドが少し上回るといったところだ。

 「織田作単体で見ればバッドエンドなのかもしれないが、これから起こりうる将来のことを考えるとあれはハッピーエンド」という意見がちらほらあった。確かに織田作は死んだが、後に残るものはあったわけで、そう考えると織田作は試合に負けて勝負に勝ったのかもしれないというものだ。

 

 私は、黒の時代はバッドエンドだと考えていた。だって死ぬもの。死ぬ。織田作死ぬもん。もう織田作はいないもん。バッドエンドの何物でもないよ。悲劇だよ。悲劇。……しかし何度も読み返すとこれはハッピーエンドなのではないかという考えになっていった。なぜ初めはバッドエンドだと思った今作を、読み返すうちにハッピーエンドなのではないかという解釈に至ったのか、仮説を立てていきながら述べていく。

 前提としてハッピーエンドは「主人公またはその周りが幸せのうちに物語が終わる」、バッドエンドは「主人公またはその周りが報われずに終わる」という認識で考察をしていく。(ハッピーエンド例「シンデレラ」等の童話、バッドエンド例「ダンサー・イン・ザ・ダーク」「ミスト」など)

 余談だが、ごんぎつねはハッピーだろうか? バッドだろうか? 私はハッピーエンドだと思っているのだが、この話は少々ずれるのでまたの機会にさせていただく。

 

黒の時代ハッピーエンドを裏付ける仮説①「太宰が主役」

 黒の時代は織田作之助の、「私」という第三者的目線を通して、一人称形式で進んでいく。これがこの小説のおいしいポイントだと個人的に思っている。(どうして織田作の一人称が私になっているのかという考察はツイッターで腐るほどしたのでよろしければご参照願いたい #トキハカ小説2巻考察 )

 つまり、黒の時代の語り手は織田作之助ということになると考えられるのだが、主役が織田作之助というわけではない。主役は太宰である。いまいちピンとこない説明で申し訳ないのだが、「シャーロック・ホームズ」で例えよう。「シャーロック・ホームズ」の語り手がワトソンであることは有名だ。だが、彼がこの作品においての主役だと思う人は少ないだろう。主役はどう考えてもホームズだ。ワトソンが事件の概要を語り、ホームズが事件を解決する。主役とは物語の中心にいて、物語を動かす人物のことだ。物語の中心にいるのはホームズだ。ホームズによって物語が展開していく。少々強引な考え方だが、この手法も黒の時代でも同じようなことが言えると考える。織田作之助が調査をし、彼が得た情報によって太宰が解決へ導く。

 織田作之助が語り手で、太宰が主役。つまり黒の時代は、非常に乱暴な言い方をしてしまうと、太宰を優しく見守る"語り手"――もっと暴力的な言い方をしてしまえば、社会を構成する脇役の一人が死んだだけであって、主役はまだ生きているのだからハッピーエンドと言える。その性質上、語り手は誰にだって勤まるからだ。

 織田作の語り手としての特徴として、太宰の悪の部分も心の内をも正確に見抜き、一歩引いたところから見守る描写をしていることが挙げられる。たまにユニークな、芸術的な描写があることも面白いところの一つだろう。(P167『そこには太宰の人生に深く刺さって食い込む、巨大な銛のような棘が見てとれた。』P92『壁に人生最後の模様を作った。』等)

 

 ただ、この仮説には穴がある。それはある場面から織田作が太宰を押しのけて「主役」になってしまうということだ。お察しの通り、それは169ページからだ。

 織田作の立てた夢や誓いが無残に焼け焦げていくシーンで、彼は主役になった。語り手を放棄したのだ。180ページからの織田作に私は何か良く分からない奇妙さを覚えていたのだが、それは後になって分かった。太宰と話しているときの語り手の部分が淡々としすぎている、ということだ。冷酷さを覚えるほどだ。

 語り手を放棄し、単身で勝手に乗り込んでいく様はこれまでのスタイルと打って変わって彼こそが主役といわんばかりである。いや、主役なのだ。この最後の章においては。

 つまりこの仮説①は半分成り立ち、半分成り立たないことになる。

 

黒の時代ハッピーエンドを裏付ける仮説②「魂の救済の物語」

 黒の時代は救済の物語だ、という仮説だ。単なる物理的な救済ではなく、魂、精神的な救いを描いたものだという説だ。

 端的に言ってしまえば、体は死んだが、心が救われたということだ。例えるなら「フランダースの犬」だ。貧しい少年ネロは画家を目指し、教会のルーベンスの絵画をいつか見たいと望みながら必死で働いた。しかしその努力もむなしく不運にも愛犬パトラッシュと一緒に死んでしまう。だが、ルーベンスの絵画を最期に見れたので、幸福のうちに死ねた。だから「フランダースの犬」を悲劇と称える人は多くとも、バッドエンドだと称える人は悲劇と称える人ほど多くはないと思われる。(ていうかキリスト教圏だし神に召されてる時点でありゃハッピーエンドになるんじゃないの?????)

 織田作も「人は自分を救済するために生きている。死ぬ間際にそれが分かるだろう」とか言ってるし。

 織田作の夢は叶わなかったが、太宰に夢を託すことで織田作の心は救われたのだろう。たぶんたぶん、ずっと「人を救う側になれ」「佳い人間になれ」と太宰に言いたかったのだろう。(P88の『だがひょっとしたら、それは間違ったことなのかもしれない~』から続く文章やP229『だが今では、そのその孤独に土足で踏み込まなかったことを、少し後悔している。』などの一文から読み取れる。)

 織田作が最期、満足そうにして逝ったのは、その思いを太宰に話すことができ、太宰の孤独を少しでも癒す道を示せた、太宰の心を救うことができた、この教えを守った太宰が良い人間になれば、自分の人生にも意味があったのだろう、という自己肯定感があったからではないだろうか。

 人生とは、他人の人生と自分の人生の重なり合いでできている。横にも縦にも伸びており、願いや祈りを次の代に託すことで人は希望をもって死んでゆける。だから恐らく、織田作は織田作で悔いはないのかもしれない。

 黒の時代は悲劇の物語だが、魂の救済の物語でもある。だからハッピーエンドといってもいいのではないだろうか。

 

 

 

 

 以上二つの点から黒の時代ハッピーエンド説を述べさせたいただいたが、もちろん見る人の主観によってはまたかなり違ったものになるとは思う。いろんな人の黒の時代の考察が読みたい次第であります、ハイ。

 

 追記のまとめ感想なのだが、黒の時代がバッドエンド足りうるときは、その時は「太宰が幸せになれなかったとき」のような気がする。織田作の願いを受け取った太宰としてはもはや彼と一蓮托生といっても過言ではないのだろうか。太宰が幸せになれなかったら、そのときは織田作の願いや祈りも無駄になってしまうのではないのだろうか。つまり、黒の時代の延長線上に漫画本編があるので、織田作が成し遂げようとした未来がそこにあるかどうか、私は確かめなければならないような気がする。

 その確かめがすむまでは、結局のところ、黒の時代はいつまでもハッピーかバッドか白黒つけられない、厄介な宿題であるとも言える。

 だからこそ、黒の時代は面白くて仕方ないと感じるのかもしれない。

やるだけやりたい黒の時代考 まえがき

黒の時代はいいぞ

 

 

 文豪ストレイドッグスという漫画について、正直に申し上げて私はあまり好きではなかった。それどころか親しい友人と批判までしていた。理由としては私が文豪好きだったからである。その手の研究をしているわけではないので一般常識レベルだが、それでも文豪やら作家やらへの愛情はあった。好きな作家は安部公房だ、夢野久作だ、江戸川乱歩だ、ああ、サンテクジュペリだ、アレクサンドルデュマだ、現代作家ならば冲方丁だ、伊坂幸太郎だ、そういえば東野圭吾の手紙で泣いたことが懐かしい思い出だ、赤と黒はいいぞ、罪と罰は読めばキレそうになったぞ、とにかくとにかく、そこそこ本は読んでいた。だから最初は文豪ストレイドッグスのオリジナリティ溢れる文豪の姿に嫌気がさした。だから無理だと思った。だがそれは悪いことではないし、極度に貶めない限り作品について語ることはなんら問題ない。これもまた正しい消費者、読者の姿である。さらに言うとごく親しい友人間でのみのことだったので、 悪評を周囲に撒き散らしていたわけではないしネットでも過剰に叩いていたわけではない。そのことを了承していただきたい。

 

 そんな私が文豪ストレイドッグスにここまで入れ込んでしまったのは「黒の時代」を読んだからである。もちろん漫画は漫画で全部読めばなかなか面白かったのだが(人間の承認欲求、生きる価値やらそういう哲学的なテーマが見え隠れしていたから)、小説はことさら面白かった。一言で言えばハードボイルド。小説3巻はコミカルな面が多かったが、小説1巻2巻はハードボイルドだった。

 漫画本編で描かれなかった過去が小説にはある。漫画作品の小説版といえば、どちらかというと番外編やスピンオフ的な扱いが多い。例を挙げるなら鋼の錬金術師でも小説のスピンオフは幾つかある。私もハガレンの熱い読者なので小説も全部読んだが、本軸で描かれなかったストーリーを描いており、いわゆるこぼれ話的なものとして存在している。小説版を読まなくても本編のストーリーを把握する上ではなんら支障はない。小説のキャラが漫画で出てくることもないし匂わせるような描写もなかったはずである。漫画は漫画で、小説は小説で完成していた素晴らしい作品であった。

 だが文豪ストレイドッグスに関しては小説はもはや番外編やスピンオフなどではなく、本編の一部として取り扱っても間違いはないだろう。なぜなら、「本編を完全に把握するためには小説を読まないと支障が出る」からである。これは私の見解である。もちろんそうじゃない読者も多くいるはずだ。だが小説を読むと文豪ストレイドッグスの世界観に深みが増すのは間違いない。

 

 おそらく黒の時代の概要をよく知らないという方はこのブログを読んでないことかと思う。ので、このブログは黒の時代のネタバレに配慮はしないつもりである。そして黒の時代の概要についても省略させていただく。今更書いたって不毛である。

 

 とりわけ黒の時代は、文豪ストレイドッグスを語る上では外せないはずだ。漫画本編では太宰が準主役として出てくるのだが、この太宰、本編では全くと言っていいほど自分を語らない。どんな考えがあってどんな思いがあって死にたがっているのか、行動原理が何なのか、他のキャラが夢や理想や思いの丈をどストレートに語ってくれるのに、準主役の太宰だけ、殆ど分からない。アンノウンでアノニマスな「なんかよく分からないけどクソ有能だしイケメン、いつも眼福やで、ありがとな」という印象しか持てない。もはや何なんだよお前。

 その印象が覆されるのが、かの「黒の時代」である。黒の時代には太宰の思いや太宰の行動原理が分かる。ちらと、死にたがりの理由も判明する。その理由を知ると、太宰に対して「お前何なんだ?」というイメージから一転して「可哀想な人物なんだなあ」という愛情やら慈悲やらの気持ちが湧いてくる。

 

 まだ黒の時代を読んでない文豪ストレイドッグスのファンの方は是非読んでほしい。特に太宰が好きならば是非。もはや必修科目である、と声高に叫びたい。だってこの話、本来なら過去編として漫画本編でやるべきな重要な話だろう。なぜ小説にした。いや、漫画本編でやるとしてもタイミングが分からないから小説版にしたのかもしれないけれど。漫画本編のエスカレーターでしか文豪ストレイドッグスを楽しまない読者だっているはずだ。悔しい。非常に惜しい。

 

 長いまえがきになってしまったが、時間があれば、あと需要があれば黒の時代考察をやるだけやりたい。「やるだけやりたい」とは、ガチガチに研究をしたい、物凄く整理された考察をしたい、というわけではない。そっくりそのまま「思ったことを書き、思ったことを徒然なるままに書きたい」という意味であるので、まともな考察になるとは思わないしできるとは思わない。まともな考察なら他に頭のいい方がやってくださるはずなので(やってください!!!!!後生ですから!!!!!)、私は私なりでやらせていただこうかなと思っている。