やるだけやりたい黒の時代考① バッドエンドかハッピーエンドか

 ツイッターで簡単なアンケートを取った。黒の時代を読んだ方々に向けての「黒の時代はバッドエンドかハッピーエンドか」というものだ。(メリーバッドエンドやらの項目も載せようと迷ったのだが、メリバという概念がまだ共通理解がないことと、評価をグラデーションにしてしまうと黒の時代への認識が甘く、有耶無耶な考察になってしまうと考えたため、二元論的なアンケートにさせていただいた。)お遊び感覚だったのだが、結果はとても興味深かった。3日間という短い間に設定したのだが、800票を超える結果になって、大変大変嬉しかった。投票していただいた方、本当にありがとうございました。

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 最終結果はこんな感じだ。ハッピーエンド43%、バッドエンドが57%、と大きく票はわれはしなかった。バッドエンドが少し上回るといったところだ。

 「織田作単体で見ればバッドエンドなのかもしれないが、これから起こりうる将来のことを考えるとあれはハッピーエンド」という意見がちらほらあった。確かに織田作は死んだが、後に残るものはあったわけで、そう考えると織田作は試合に負けて勝負に勝ったのかもしれないというものだ。

 

 私は、黒の時代はバッドエンドだと考えていた。だって死ぬもの。死ぬ。織田作死ぬもん。もう織田作はいないもん。バッドエンドの何物でもないよ。悲劇だよ。悲劇。……しかし何度も読み返すとこれはハッピーエンドなのではないかという考えになっていった。なぜ初めはバッドエンドだと思った今作を、読み返すうちにハッピーエンドなのではないかという解釈に至ったのか、仮説を立てていきながら述べていく。

 前提としてハッピーエンドは「主人公またはその周りが幸せのうちに物語が終わる」、バッドエンドは「主人公またはその周りが報われずに終わる」という認識で考察をしていく。(ハッピーエンド例「シンデレラ」等の童話、バッドエンド例「ダンサー・イン・ザ・ダーク」「ミスト」など)

 余談だが、ごんぎつねはハッピーだろうか? バッドだろうか? 私はハッピーエンドだと思っているのだが、この話は少々ずれるのでまたの機会にさせていただく。

 

黒の時代ハッピーエンドを裏付ける仮説①「太宰が主役」

 黒の時代は織田作之助の、「私」という第三者的目線を通して、一人称形式で進んでいく。これがこの小説のおいしいポイントだと個人的に思っている。(どうして織田作の一人称が私になっているのかという考察はツイッターで腐るほどしたのでよろしければご参照願いたい #トキハカ小説2巻考察 )

 つまり、黒の時代の語り手は織田作之助ということになると考えられるのだが、主役が織田作之助というわけではない。主役は太宰である。いまいちピンとこない説明で申し訳ないのだが、「シャーロック・ホームズ」で例えよう。「シャーロック・ホームズ」の語り手がワトソンであることは有名だ。だが、彼がこの作品においての主役だと思う人は少ないだろう。主役はどう考えてもホームズだ。ワトソンが事件の概要を語り、ホームズが事件を解決する。主役とは物語の中心にいて、物語を動かす人物のことだ。物語の中心にいるのはホームズだ。ホームズによって物語が展開していく。少々強引な考え方だが、この手法も黒の時代でも同じようなことが言えると考える。織田作之助が調査をし、彼が得た情報によって太宰が解決へ導く。

 織田作之助が語り手で、太宰が主役。つまり黒の時代は、非常に乱暴な言い方をしてしまうと、太宰を優しく見守る"語り手"――もっと暴力的な言い方をしてしまえば、社会を構成する脇役の一人が死んだだけであって、主役はまだ生きているのだからハッピーエンドと言える。その性質上、語り手は誰にだって勤まるからだ。

 織田作の語り手としての特徴として、太宰の悪の部分も心の内をも正確に見抜き、一歩引いたところから見守る描写をしていることが挙げられる。たまにユニークな、芸術的な描写があることも面白いところの一つだろう。(P167『そこには太宰の人生に深く刺さって食い込む、巨大な銛のような棘が見てとれた。』P92『壁に人生最後の模様を作った。』等)

 

 ただ、この仮説には穴がある。それはある場面から織田作が太宰を押しのけて「主役」になってしまうということだ。お察しの通り、それは169ページからだ。

 織田作の立てた夢や誓いが無残に焼け焦げていくシーンで、彼は主役になった。語り手を放棄したのだ。180ページからの織田作に私は何か良く分からない奇妙さを覚えていたのだが、それは後になって分かった。太宰と話しているときの語り手の部分が淡々としすぎている、ということだ。冷酷さを覚えるほどだ。

 語り手を放棄し、単身で勝手に乗り込んでいく様はこれまでのスタイルと打って変わって彼こそが主役といわんばかりである。いや、主役なのだ。この最後の章においては。

 つまりこの仮説①は半分成り立ち、半分成り立たないことになる。

 

黒の時代ハッピーエンドを裏付ける仮説②「魂の救済の物語」

 黒の時代は救済の物語だ、という仮説だ。単なる物理的な救済ではなく、魂、精神的な救いを描いたものだという説だ。

 端的に言ってしまえば、体は死んだが、心が救われたということだ。例えるなら「フランダースの犬」だ。貧しい少年ネロは画家を目指し、教会のルーベンスの絵画をいつか見たいと望みながら必死で働いた。しかしその努力もむなしく不運にも愛犬パトラッシュと一緒に死んでしまう。だが、ルーベンスの絵画を最期に見れたので、幸福のうちに死ねた。だから「フランダースの犬」を悲劇と称える人は多くとも、バッドエンドだと称える人は悲劇と称える人ほど多くはないと思われる。(ていうかキリスト教圏だし神に召されてる時点でありゃハッピーエンドになるんじゃないの?????)

 織田作も「人は自分を救済するために生きている。死ぬ間際にそれが分かるだろう」とか言ってるし。

 織田作の夢は叶わなかったが、太宰に夢を託すことで織田作の心は救われたのだろう。たぶんたぶん、ずっと「人を救う側になれ」「佳い人間になれ」と太宰に言いたかったのだろう。(P88の『だがひょっとしたら、それは間違ったことなのかもしれない~』から続く文章やP229『だが今では、そのその孤独に土足で踏み込まなかったことを、少し後悔している。』などの一文から読み取れる。)

 織田作が最期、満足そうにして逝ったのは、その思いを太宰に話すことができ、太宰の孤独を少しでも癒す道を示せた、太宰の心を救うことができた、この教えを守った太宰が良い人間になれば、自分の人生にも意味があったのだろう、という自己肯定感があったからではないだろうか。

 人生とは、他人の人生と自分の人生の重なり合いでできている。横にも縦にも伸びており、願いや祈りを次の代に託すことで人は希望をもって死んでゆける。だから恐らく、織田作は織田作で悔いはないのかもしれない。

 黒の時代は悲劇の物語だが、魂の救済の物語でもある。だからハッピーエンドといってもいいのではないだろうか。

 

 

 

 

 以上二つの点から黒の時代ハッピーエンド説を述べさせたいただいたが、もちろん見る人の主観によってはまたかなり違ったものになるとは思う。いろんな人の黒の時代の考察が読みたい次第であります、ハイ。

 

 追記のまとめ感想なのだが、黒の時代がバッドエンド足りうるときは、その時は「太宰が幸せになれなかったとき」のような気がする。織田作の願いを受け取った太宰としてはもはや彼と一蓮托生といっても過言ではないのだろうか。太宰が幸せになれなかったら、そのときは織田作の願いや祈りも無駄になってしまうのではないのだろうか。つまり、黒の時代の延長線上に漫画本編があるので、織田作が成し遂げようとした未来がそこにあるかどうか、私は確かめなければならないような気がする。

 その確かめがすむまでは、結局のところ、黒の時代はいつまでもハッピーかバッドか白黒つけられない、厄介な宿題であるとも言える。

 だからこそ、黒の時代は面白くて仕方ないと感じるのかもしれない。