アニメ「黒の時代」は何を描きたかったのか ―演出とセリフから考察するもう一つの「黒の時代」―

 昨夜、黒の時代16話を見た。どうやら私は相当に黒の時代が好きらしい。見終わった瞬間、「どうにかしてこの素晴らしさを誰かに伝えたい」「私が感じたアニメの素晴らしいところを誰かに聞いてほしい」という感情が爆発した。

 ツイッターの版権アカウントでは翌日の上映会の人々のために「何も話さない、まっさらな状態で見てほしい」という気持ちから、ツイートを控えていたのだが、「ストクラ少ないからヘーキヘーキ」と思い、私の本アカウントのほうでは暴れてしまった。「あああああ」とか「黒の時代サイコーーー!!」等といった、断末魔にも似た歓喜の雄たけびを呟いていた。さらに、フォロワーさんのいちまろさんに、自分でも信じられないと思うほどの量のDMを送ってしまっていた。夜も更けていたのに、申し訳なかった、付き合ってくださってありがとうございます。

 今夜は上映会である。私はどうしても行けなかったのだが、代わりに皆がシアターで黒の時代を見ている時間に、アニメ「黒の時代」の考察をまとめたいと思う。現在の時間は8時45分、時間との勝負である。どうにかして上映会直後には公開できるようにしたい。(そのために文章がめちゃくちゃになるかもしれないが、ご愛敬でお願いいたします)

 

アニメ「黒の時代」は何を描きたかったのか

 アニメ「黒の時代」は、ほぼほぼ小説と同じ話を展開しているが、若干小説版との相違が見られる。また、一期に比べ、かなり演出にこだわったと思われるほど、印象的なシーンがいくつもあった。織田作の瞳の色、ジイドの瞳の色、伸ばした手が届かない対比……4話すべて、あますことなく無駄のないシーンばかりだったと思われる。13話から16話まで、私が気になったシーンから考えを述べ、まとめとして、アニメ「黒の時代」が小説「黒の時代」を継承し、何を描きたかったのかについて私なりに考察していく。

 

①届かない手

 13話では路地裏で「太宰!」と叫びながら織田作の手が届かず、16話では店前で「織田作!」と叫びながら太宰の手が届かない。このシーンのアップの演出が同じなのはいろんな人が気が付いたと思われる。ここで分かるのは、「どちらかが手をきちんと差し伸べていれば、結末が変わったのではないか」ということである。少なくとも死別などという友情の終わり方はしなかっただろう。織田作が太宰の心の闇を無理やり白日の下に晒していれば、太宰は織田作が死ぬ前に「いい人」になろうと努力していただろうし、太宰の手が届いていれば織田作は死地へ向かうことはなかった。

 しかし、彼らは無理に引き留めることはしなかった。伸ばした手を届くまで、追いかけることはしなかった。「追いかけるほどでもない間柄の友情」ではなく「お互い相手を心配しているが、踏み込めないという切ない友情」を描いているのだと思う。踏み込んでしまえば、相手との関係を逆に壊してしまうのではないか――自分には相手の世界に踏み込めるほどの権利は持っていないのではないか……そのような心理がありありと目に浮かび、非常にもどかしい。(というか小説版ではまさに織田作がP88でそのようなことを言っている。マフィアの特質なのかもしれない)

 

②ジイドと織田作の瞳

 ジイドは小説版では灰色の目で、織田作はとび色(茶色)をしている。しかし、アニメ版ではジイドは赤い目、織田作は青い目になっている。ズバリ言うと、これは敦と芥川のように「色ではっきりと対比」させるためだと思っている。敦と芥川がどっちかどっちだったか分からないが、青と赤で対比させていたような気がする。(全然違ったらごめん)

 さらに言うと、漫画のほうでも「キャラデザは横に並んだ時にそれぞれ映えるように設定してある」と作者も言っていたので、ジイドも織田作も並べば映えるようなキャラデザに改変したのかもしれない。

 

③瞳のハイライト

 文ストを真に楽しむうえで欠かせないのが「瞳のハイライト」である。リトマス紙のようにそのキャラのカルマ値を教えてくれる便利な演出である。黒いシーンほど、ハイライトが消えるので、「このセリフにはそのキャラの闇が含まれています」ということが分かる。太宰が何度も瞳からハイライトが消えるのが印象的だったのだが、織田作の前でハイライトが消える瞬間は路地裏、カレー屋くらいしかなかったように思う。さらに言うと、その瞬間の織田作の顔にも注目してほしい。半ば諦めたような、あきれたような、悲しそうな、複雑そうな顔をしている。このシーンの小説版に織田作の心情がすべて書かれているので、読んでほしい。

 特に13話路地裏のシーンはすごくよかった。瞳にハイライトのない太宰のことを心配しつつも、何もできてない自分に苛立っているような声色は最高である。

 

 ……私は、瞳のハイライトの件でどうしても言いたいことがある。

 黒の時代についての私の考えを根底からひっくり返してしまうことだ。

 

 16話のジイドのことだ。気付いた人も多いと思うが、15話では瞳にハイライトがほぼなかったジイドが、16話では生き生きとしたように輝いている。そして、織田作の瞳にも、ハイライトはある。

 私は小説を読んで織田作とジイドの最後のシーンは死んだ目で、死んだように、殺しあっていたのだと思った。しかしアニメでは違った。最後まで瞳から輝きは失われず、生きて目をしていた。

 私は違和感しかなかった。小説版では「生存の階段から降りた目」とも称されていた。しかし、アニメではハイライトを徹底的に入れ続けた意図はなんだろう。何か理由があるはずだと思い、ひとつの仮説を立てることにした。

 アニメ黒の時代では「二人は自分の人生の最期、絶望しながら死んでいったのではない」ということを伝えたかったのではないだろうか。望みは潰えたが、死にに行くために殺しあったが、最期まで「生きる」ことを放棄していなかった。だから一瞬も手を抜かず、撃ち合いをした。

 この仮説が正しいのであれば、ジイドは自分たちのことを亡霊といったが、織田作が殺したのは「生きたジイド」である。ジイドは、最期は「生きた人間」として死ぬことができた。小説では感じられなかった救いを、アニメでは描きたかったのではないだろうか、と思う。

 だからこそ、(私個人の意見として)一見ちょっと合ってないように思われる劇中で流れるOPが生きてくるのかもしれない。

 さらにこの仮説を裏付けるかのようなセリフがある。フォロワーさんとの会話で分かったことなのだが、アニメの織田作は、子どもたちに「仇をとってくる」とは言っていないのだ。「行ってくる」という言葉に改変されていた。つまり、アニメの織田作も、「仇を取る」のではなく、「自分の人生を最期まで生きるために、あの男と決着を付けに行く」ということを子どもたちに伝えたかったのかもしれない。だからこそ、織田作も最期まで瞳から輝きは失われずいれたのかもしれない。

 なにより、ジイドの死ぬ瞬間の、死に顔が美しかった。それだけで泣きそうになった。

 そういう意味では、アニメ黒の時代は「救いを描きたかった」のかもしれない。

 

④「友達だからな」

 織田作の今際の際のセリフが名シーンなのは言うまでもないのだが、アニメでは「分かるさ……誰よりも分かる」に追加して「俺はお前の友達だからな」がアニメオリジナルとしてセリフが追加されている。もちろんこのセリフは原作にはない。

 このセリフから分かることは、黒の時代は「友情」に焦点を当てたものだということだ。

 ちなみに15話の芥川の「太宰の友人とはまことか」という問いに対し、「その手の言葉は軽々しく口にしない主義だ」と言っている。しかし、原作ではそう問われる前に自ら「太宰の友人だ」と紹介している。

 この改変から、アニメの織田作は徹底して「太宰との距離の取り方を考えあぐねている」ということが分かる。恐らく織田作は、どうしたらいいか分からないそんな自分に相当苛立っていたと思う。怒りを押さえたような、13話路地裏の「やめろ太宰」でそれが分かる。

 しかし、死の際にやっと織田作は太宰のことを「友達だからな」と言えることができた。その時の表情はかすかに笑っていた。

 だからこそ「人は自分を救済するために生きている、死ぬ間際にそれが分かるだろう……その通りだ」と言いながら逝ったのもこことリンクしているように思える。最期に自分の友人のことを声に出して「友達だ」と言えたことに満足していたのかもしれない。そしてそんな友人を良い方向に導けた事にも。

 

 13話では織田作の手が届かず、16話では太宰の手が届かなかった。それはお互いどこまで踏み込んでいいのか分からず、おびえていたからだ。自分は相手のことを友達だと思ってるけど、相手は自分のことを果たして本当に友達だと思ってくれているのだろうか……と。

 太宰は森先生に笑顔で穏やかそうに「友達だからです」と伝えている。

 織田作は失神した芥川に「友のためにも」と言っている。

 だけどお互い、それを知らない。

 そんな「両片思い」が「両想いに」なる瞬間が、あのシーンなのだ。

 

 アニメ「黒の時代」は友情に焦点を当てた物語と言える。

 

⑤コートが脱げ、包帯がとれていくシーン

 太宰の黒コートはマフィア時代を象徴するシンボルだ。そして目の包帯も、同じような比喩が隠されている。

 そのシンボルが織田作のところへ駆け寄り、織田作の言葉を聞き、剥ぎ取られていくシーンは「マフィアを抜ける」ことを強く印象付けさせる。

 そしてマフィアを抜けた太宰は種田に「人を救う仕事ができますか?」と問う。このセリフ、今までに聞いたことのないくらい優しい声をしてる。爽やかで、穏やかで、希望に満ち溢れた太宰の声だ。このセリフにもいろんな意図が込められているのかもしれない。

 

⑥劇中歌のソプラノ

 おそらく……こんなことを言うのは私しかいないのかもしれないが、ジイドと織田作の戦いのときに流れていたソプラノ、非常に感動した。というのも、あのソプラノ歌手は笠原 由里さん(現在は新南田ゆりさん)という方なのだが、天元突破グレンラガンでも劇中歌で歌われていた方なのだ。私はグレンラガンの大ファンで、あの方のソプラノを中学生のころから聞いていて、聞きなれた歌声がまた文ストで聞けるとは!!!という感動がひとしおだ。

 ちなみに、グレンラガンで流れていたあの方のオペラのタイトルは「libera me from hell」一度聞いてほしい。ラップとオペラとかいう合わせ技が聞けるぞ。ラップもオペラもぜんぶ外国語だったのだが、和訳するときちんとグレンラガン世界に合ったものになっていた。ということは、あのオペラは和訳すると、ジイドと織田作の歌詞になっているのでは、と推測する。私は偏差値が5しかないので、全然和訳できないので、だれかリスニングに自信のある方、お願いします……。

 

 

 

 

 

 以上、述べさせていただいた。

 時間が足りないので、後で追記もすると思うし、簡潔にまとめさせていただくが、アニメ「黒の時代」では「救い」と「友情」を強く描きたかったのではないか、というまとめにさせていただく。

 小説版「黒の時代」は救いの要素が薄かった。しかし、アニメではその「救い」を演出によって感じられるようにし、もとからあった友情要素をさらに色濃く出した演出が多く入れられていた。

 アニメの制作側が何を狙いにして制作しているのかは恐らくアニメの解説本なんかでいつかは語られることだろうと思うので楽しみにしたい。