私が生きていくことと、文豪ストレイドッグスについて

文豪ストレイドッグスのファンを続けて2年半が過ぎようとしている。

ファンと言っても、形はいろいろある。キャラ愛を貫く人、ストーリーを追い続ける人、絵を楽しむ人、二次創作をする人……。キャラ愛も貫き、二次創作もする人もいる。明確なカテゴリ分けがあるわけじゃない。ファンの形は、ファンの数ほどいる。そんな私は、考察を中心として楽しむファンだ。勿論二次創作もする。

 

文ストの話を……本当に話そうとすると、頭の中にあるものすべてを出そうとすると、5時間以上話し込む。というか、本当にしたことがあって、去年の今頃にはフォロワーさんとカフェでそのくらい話し合った。すごかった。頭が宇宙に行くかと思った。

 

勿論映画も見ました。1日で2回も見てしまった。素晴らしかった。

映画の考察をしようとすると、とっても話が長くなるうえに、まだうまく消化できていない部分もあるので、今回はやめます。また今度。

 

で、どうして今回筆を執ったのかと言うと、文豪ストレイドッグスのテーマである「生きていくこと」と、私の人生について、少し重なって見えたな、学ぶものがあったな、と思ったからでした。

 

私が生きていくことと、文豪ストレイドッグスについて

 

今日、数年ぶりに母校の高校に顔を見せに行きました。高校卒業後、一度も顔を出したことがなかったのですが。就職が決まり、やはりあいさつしなくちゃならないだろう、と思って。あと、自分の過去にケリをつけたくて。

 

 少し自分の話をします。

 私をよく知る方々も多いかもしれませんが。

 

私は、高校3年生の時、学校に3分の1以上通わなかった。所謂不登校っていうやつ。

原因は、勉強についていけなかったから。

周囲との学力の差に愕然として、授業も面白く感じられなくて、酷い「劣等感」に苛まれた。さらに、自分がかねてから抱いていた、「〇〇大にいって、あの研究をして、この職に就くんだ!」という夢があったけど、当時、今の学力じゃ志望大学に行けないことを悟った時に、私の高校生活は意味のないものに転化してしまった。

 

そして、当時の先生からの罵倒も酷かった。これが私が不登校になったトドメになった。

英語の教師から、「お前は中学生からやりなおしてこい」と授業中、みんなの前で言われた。

古典の教師から、「お前はクラスの空気を乱している」と授業中、みんなの前で言われた。

自分は遅れているから、もちろん勉強を頑張っているつもりだった。でも、頑張りは実を結ばず、教室に私の居場所もなく、授業中涙をこらえるのも、もう限界だったので、不登校になった。(悲しいことに、当該教師は私が不登校になった直接的原因であることを、自覚していない)

 

「自分はどうしようもない人間なんだ」「人より遅れている」、という「劣等感」が私の周りに常に付きまとっていた。今もそうだ。

 

その先生たちの顔を今も覚えている。就職決まったら、絶対に復讐してやると思った。

にこにこの笑顔で「あの時あなたの言葉がきっかけで不登校になりましたが、今は元気に過ごしております。」と、職員室みんながいる中で、言ってやろうと思った。言う権利が私にはあった。言えば、過去にケリがつけられて、晴れて私は自身に満ち溢れていた自分を取り戻せると思った。

 

今日、就職が決まったことを報告しに、母校へ行った。

結論から言うと、そんな暴言は言っていない。当該教師に会ってすらいない。離任されていたからだ。

当時、献身的に家庭訪問してくださっていた担任の先生と、保健室登校でお世話になった先生と、部活の顧問の3人だけ挨拶して帰った。何気ない会話と、「本当にご迷惑おかけしました、先生のおかげで無事、元気でやっております」と言って帰った。この3人の先生方は本当にお世話になった先生方だったので、私の復讐の対象外だった。むしろ感謝しかない。

 

不登校だった悲しい過去にケリがつけられたか? と言われると、正直分からない。

そもそも、ケリつけられるものなのかも、分からない。私の「劣等感」という心の傷は多分この先ずっと残っていくだろうし、一度「自分は生きていても仕方がない人間だ」と自分自身を見捨てた過去は、この先も大きな壁となって、何かあるたびに簡単に自分を見捨てそうな気がする。自己肯定感はあるけれど、自分に対する安心感はない。

 

たかが、いっときの不登校くらいで、って思う人もいるかもしれない。でも、私はそうではない。不登校になったせいで、自分に自信がなくなった。自分に自信がないと、気概がなくなる。いやなことから全部逃げ出したくなる。(所謂逃げ癖)そしたら朝が辛くなる。ずっと何も考えず、ベッドで寝起きしていたくなる。

不登校の時についた逃げ癖は今でも治らない。それまで果敢に何でも挑戦してきた自分だったけど、すっかり生き方が変わってしまった。

 

不登校のことを鮮明に思い出そうとすると今でも必ず泣いてしまう。もうすでにこのブログを書いて、一回泣いた。もう数年前のことなのに。表面上は「私不登校経験があるんすよね~~www」とは言えるけど、深くは話せない。「高校三年の時、勉強が分からなくなった絶望と、教師からの自己否定を受けて不登校に……え?教師から何を言われたかも言わないといけないの?ええっとまいったな……」とそんな感じで後は歯を食いしばらないと話せない。

 

人は自分を誇示して生きていく。いいかっこして生きていく。「自分謙虚なんで……」というけれども、意識下でも無意識下でも、絶対に自分の力をどこかで見せびらかして生きている。それは、生物的に当たり前のものである。自分を強く見せないと、他者から食われるからである。だから人は着飾るし、見栄を張ったりする。いきったりする。そうしないと生きていけないから。

私は安心して生きていくために、「不登校」によって人一倍に膨らんだ「劣等感」を捨てたい。排したい。自分を信頼したい。でも難しい。

 

正直に話すと、私は当該教師をそこまで憎んでいない。「絶対に復讐してやる!」とイキって、エネルギーに変えようとしただけで、心の底では、多分、そこまで振り切れていないと思う。暴言を吐いて復讐をしたとしても、あとあと「なんであんなこと言っちゃったんだろう」と後悔するに決まってる。私が不登校になったのは、そういう運命の下だったからであって、別に当該教師だけのせいではないんだと思う。当時はひどく傷ついたけど、社会と言うものはきっとそういうもんで、悲しい出来事も、悔しい出来事も、結局は自分が何とかしなければならないんだと思う。

 

自分が不幸になって、「劣等感」に苛まれて「逃げ癖」がついて、生き方が変わってしまったのを、誰かのせいにすれば楽だけど、楽なだけで、前に進めるわけではない。私の人生がこうなったのを、ずっと誰かのせいにして、悪態ついて生きていきたくはない。だって結局何も変わらないから。人のことを悪く言ったからと言って、その人が改心して私の人生をより良くできるとは思わない、だって私の人生を一度めちゃくちゃにしてくれた人が、再び私の人生をどうにか良くできると思う?????????

 

私の人生は私だけのものであり、悲しい過去も、苦しい思い出も、「逃げ癖」によって生き方が変わってしまったのも、私だけに課せられた課題だと思う。「過去にケリをつけたい」……そう思って大学進学したりして数年間生きてきたけど、一度味わったものは、切り捨てようとも切り捨てられない。

 

文豪ストレイドッグスの映画を見た。素晴らしい映画だった。もう一度、文豪ストレイドッグスを味わってみた。

出てくる登場人物、いろんな過去があると思う。でも、過去と決別つけて乗り越えて生きている人は、いないと思う。

過去とケリをつけたい、そう思ってここ数年間生きてきたけれど、もう一度文ストを味わってみると、「別に、過去にケリをつけなくてもいいのかもしれないなあ」と思えるようになった。

よく、「悲しみを乗り越える」と言うけれど、じゃあ一体、どの状態が悲しみを乗り越えたと言えるんだろうか?果たして悲しみを乗り越えることって、できるものなのだろうか。バラエティ番組とかで、苦労した芸能人の重たい過去話を特集しているとき、やっぱりどの芸能人も最後には辛くて涙を流す。あれって、過去を乗り越えている状態なんだろうか。

 

文ストの映画を見て、「悲しみは乗り越えるものではなくて、自分のものとして同化するものじゃないかなあ」とぼんやり思った。

悲しみを自分の一部としてとらえ、もう一度自分を捉えなおす。必要なのは、自己の修復ではなく、再構築することにあると思う。

悲しい過去を乗り越えて昔の本来の自分を取り戻すのではなく、悲しい過去を取り込んで自分の経験値として新しい自分を生み出していく。

具体的に言うと、「逃げ癖」を治すのではなく、「逃げ上手」になる。みたいな。

「劣等感」を治すのではなく、「底辺にしか見えないものを楽しむ」。みたいな。

 

生きていくことは辛い。きつい。誰だってそうだと思う。

自分の切っても切り離せない自分を認めるのもきつい。

だからこそ、私は文豪ストレイドッグスを読むし、生きていくことの尊さをしみじみと考えるのだ。

多分、その、うまく言えないけど。私が文ストが好きなのは、ひたすら愚直に、悩んでも悩んでも生きようとすることを諦めない皆に出会いたいから、そういうところにあると思う。

「試されるのは、その生きる価値」(アニメ版キャッチコピー)

とは、うまく表したものだ。このキャッチを考えた人に、拍手を送りたい。

 

私は生きていきたい。死にたいとは思わない。現状から逃げたいから死にたいとは思うときがあるけれど、本当に死にたいとは、今は思っていない。

私がこれから先、過去を振り切れず悩みながらも生きていくことは、きっと尊いことであるだろうし、いろんな人と出会ったりいろんな人から傷つけられたり傷つけたりするかもしれないだろうが、私はそれでもいろんな人と生きていきたい。もちろん、私を傷つけた当該教師たちも、私の人生において、かけがえのない存在である。失いたくはない、排したくはない。誰かの人生を傷つける権利は私にはないし、彼らも、私の人生をめちゃくちゃにしたくって罵倒したはずではないと考える。私がその時既に勉強で疲れていて、その時たまたま浴びせられた言葉が、悪いタイミングだっただけで。当該教師が私の傷つきやすい精神状態を理解できなかったと同じように、私も当該教師の総てを知る人間ではない。無理解こそが一番の敵である。私は、復讐がしたいわけじゃない。どんな人とでも、一緒に生きていける力が欲しい。

私は私を試したいし、私の生きる価値を見出したい。

 

いろいろあったけど、今は元気に過ごしております。